2017年5月2日火曜日

サミュエル・フラー『最前線物語』


サミュエル・フラー監督の映画『最前線物語』(1980)を見ました。痛ましさから、なかなか戦争ものには手が出ないので、ずっと見ずにおりました。

弾丸や手榴弾の応酬により沢山の人間がパタパタと倒れていきますが、「倒す/倒される」の関係を律儀に画面におさめながら、敵味方問わず、とりわけ倒された側の描写は意図的に抑えられているように思いました。後半にその流れはピークを迎え、マーク・ハミルが、とある穴ぐらに向け発砲するのを正面から撮るシーンでは「倒す/倒される」の関係性が失効状態になっています。カメラは穴の中、闇から光の方に向け据えられています。ここで印象的なのは、カメラに向け銃を構える形のマーク・ハミルではなく、そのの背後にチラリと見える空の青さでして、実際露出は闇でもなく逆光のマーク・ハミルでもなく晴天に合っています。全編を通して、あくまで太陽の下、生者に対してカメラは向けられています。

時期はだいぶ違いますが、『秋刀魚の味』(1962)が遺作となる小津安二郎の映画を思い出しました。フラーはドイツ降伏直後にチェコの強制収容所の解放に米兵として参加し、小津はいわゆる「南京事件」下に日本兵として南京に入っています。戦後の小津作品の中では、ストーリーの中で戦争についての事柄が沢山出てきますが(例えば『秋刀魚の味』の軍艦マーチなどなど)、それらはもっぱら、かつてあった戦争を「不在」のという形で表象するものとして、さりげない扱いながら、すごく重要な役割を担っているように思います。小津もやはり、主眼は「不在」の周りを右往左往する、実在の生者のほうに置いています。

戦争それ自体を舞台にしながら、死のはびこる中をほとんど不可避的に生き抜く人々を描いたフラーと、戦争による喪失が不可避のものとして在る日常を過ごす人々を描いた小津。対照的ながら似てもいて、興味深いです。