国立近代美術館で開催されているレオ・ルビンシュタインの写真展『傷ついた街』を見てきました。
簡単に言えば、以前にテロの被害を受けたことのある街でのストリートスナップ、ということになるでしょうか。冊子に書いてある「暴力がもたらした『心理的な傷』を見つめるため」という目的が果たして撮影を通して達成されるかどうか、それはちょっとどうだろうと疑問視しつつも、もの凄く充実している写真を沢山目の当たりにして圧倒されてきました。面白かったです。世界各国の雑踏がまるで一つの群衆を形成してるようにも見える展示方法も奮っています。
写真は標準あたりと思われるレンズで、同じような距離から人物の顔に焦点をあてようとしていて、画面に入り込もうとする背景の情報量は極力抑えられています。図録に載ってる文章からして写真家は非常にリリカルな方だと察するのですが、それが写真となると、たとえば画面のどのあたりで合焦しているかとか、ブレたところがどう描写されているかといった写真的な具体性や、ナデツケられた男性の髪型のテラテラした輝きであったり、何人かのせわしなく動く手に持たれるタバコが一様に短い、といった極めて断片的な細部にリリシズムが凝縮されているように思われ、非常に気持ちよく見て参りました。その辺をポイントにすると、大部分の写真がモノクロなのも納得です。
以前の写真集『map of the east』では、「東(=他者)」への、写真家の文字通りのオリエンタリズムと、それを引き受けて尚余りある現実の光景が良い関係を築いているといった感がありました。いわゆる9.11が契機となっているという今回の写真も、姿勢としてはそんなに変わってないように思います。
しかしどの顔も、何かに属した存在などではない。世界に一人しか存在しない『彼』か『彼女』なのだ。
という写真家の観点からすると、一見して撮られたのがどこの街なのか分からない今回の写真群において、他者性は、より分節化した形で、個人(の顔)に求められているという印象を持ちました。国家や宗教などの共同体よりも、おびただしい数いる個人に優位を置くというのは、9.11以降に盛り上がった(たぶん)、関係のものすごく簡単な二元化(善と悪、キリスト教とイスラムなど)への批判として充分理解できるものなのですが、個人個人をそれぞれ「異邦」とする写真家の立場もまた別の意味で、ものすごく過酷な観点だと思います。傷ついた街の心理的な痕跡が個人の姿にあるのではなく、街を破綻させてしまいかねない裂け目、傷口として、個人が写されていると言っても良いんじゃないでしょうか。