2014年12月8日月曜日
Etats Imagines。そこはフリーなドメイン。
数年前に傑作写真集『Etats Imagines』で僕を嫉妬の渦に叩き込んだ作家エリック ボードレールが映画を作っていて、かつそれが横浜トリエンナーレにて上映されていると新聞で知り、10月の終わりに、期待に胸を膨らませ横浜美術館まて行き見てきました。タイトルは『The Ugly One』で、見終わってからもタイトルの意味は分かってないんですが、中身はめちゃくちゃ面白かったです。ミュージアムの展示スペースでの上映ということもあり、実験的な動画とか、映像を用いたインスタレーションみたいなものを想像していたのですが、実際は紛れもない、いわゆる映画でございました。ロングショットの多い、端正とも言える彼の写真とはだいぶ違った、ミディアム主体のシュアな画面を撮っていることにまず驚きました。
要約するのがとても難しいんですけども、簡単に言うと、元?テロリストの映画作家足立正生のシナリオを基にして、エリックボードレールが中東、おもにベイルートで作った映画です。あえてテロリストと書いてみましたが、つまりは赤軍のこと。足立さんについては今回初めて知りました。
パレスチナの路地を歩く男性を背後から追いかけるように撮影するショットから始まる映画は、画面に関係があるんだかないんだか判然としない足立正生のモノローグもあり、非常に最初不可解。分からせようとする風でもないので気楽に見ていると、次第に映画の輪郭が明らかになってきます。とはいえ最終的に一つの像を結ぶことはなく、輪郭がクリアになってもあらわれるのは錯綜した多重像です。冒頭の雑踏を歩く男やモノローグなどの映像や音響、そしておぼろげながら確かにある話の筋などなど様々な要素は、あくまで異なる層に常にあり、一つにまとまることはありません。鑑賞後に読んだ雑誌「美術手帳」に載ったインタビューでは、エリックボードレール本人が「映画にレイヤーをかける」と言っているのが、本当に的を得ているなと感心しました。写真でいえば、フォトショで加工しつつも、いろいろな要素を重ねながら、それらを一つに統合していない状態のデータを完成作としたような映画です。
そんなような映画なのですが、インタビューでは足立さんも語っていて「ぜんぜん良くない。普通の映画になっちゃった。」と評価しているのが面白かったです。確かに色々と錯綜しつつも、あくまで劇映画として作られているのは明らかで、その点普通ちゃ普通。足立正生氏が期待する革新性?には乏しいとも言えます。そこを認めつつ、僕としてはしかしその普通の映画であることを積極的に評価しております。映画の中で進行する、様々な位相での複数の事態は収束する様子を全く見せずも、いわゆる「映画」と呼ばれるものの基本、ファンダメンタルは、まあそんなものがあるとして、かなりシッカリしており、それぞれのシーンはかなり律儀に撮られて繋がれており、感動しました。ちまたには普通の劇映画と見せかけつつも、実際は悪い意味でハチャメチャな映画が多い中、ハチャメチャでありながら実はかなり「普通」でもあるこの映画には凄く共感するところがありました。
既存のものを破壊し、まったく新しい何かを生み出さなければならない。...とは映画にかぎらずモノづくりの現場でよく言われる話です。ですがしかし、既存にあるはずのもの、あるはずの体制が実は破壊されるまでもなく既に自ずから実は崩壊していたとしたら、どうすべきでしょうか。これは写真でも、あるいは社会についてもいえることかと思います。そのような問いに構造からして応える映画として、面白かったです。この映画の中にある「混乱」にはネガティブな批判も多いそうですが、僕はあくまでポジティブに受け取りました。
最後にストーリーについて。明確ではないので色々と推測前提となりますが、物語は一組の男女の動向がベースになっています。友人たちをまじえた、食卓を囲んでの白熱した論争の最後、男は、誰も救われず、誰も報われない物語を静かに語り聞かせ、場を鎮めます。女は女で、劇中に何度かさりげなく、本当に生まれたのか定かでない子供の話をし、男を当惑させます。二人の語り、つまり誰も生き残らない話と、生まれてもいない子供の話はすなわち現実では語ることが不可能な領域にある、出来事ならぬ出来事です。それらはフィクションでしか語れないもの、物語の本領でもあるかと思います。これだけ攻めた映画、かつ困難な状況にある場所で撮った映画に、物語=フィクションを導入することは、フィクションと、その語りの方法としての映画を肯定しているように思えます。それは言い換えれば、やはり常にフィクションとして存在する、いまだ成就せぬ革命の肯定でもあるようにも思いました。