2014年3月18日火曜日

S・サルガドの『GENESIS』。ぼくらのためでない創世記。


既に発表されて2年は経ってると思われますが、セバスチャン サルガドの『GENESIS』が凄いです。物凄いだけなら今までのサルガド作品と同様ですが、今回は今までと違う点として、人間があまり出てこないという点が特徴となっております。そういった本になるとは噂で聞いていましたが、実物を見てあらためて驚きました。

いつにも増して圧倒的な自然の光景写真は、どこか人間を寄せ付けない、といった感が満載です。例外的に出てくる人達は、いわゆる文明の徒ではないといいますか、時代が時代なら「未開」と称されるような人達で、言ってしまえば写真を撮る人見る人愛好する人達の生活とは異なる価値観で暮らす「他者」であります。逆に、写真集が示す世界像からすれば、他のあらゆるものは写しても、文明の影響が見られる事物は決して入れんぞ、という意思があるわけで、つまり我々のほうが世界に対し例外的な存在といえるのではないでしょうか。文明の影響はこの地球上のどこも免れ得ないとしても、文明の影響がない状態を仮想しようとしているように思います。ではしかし、この「我々の不在」とは、一体何を意味しているのか。

 無限に多くの希望があるのだが、ただ、ぼくらのためにはない。

とは、三年前から繰り返し読んでるベンヤミンの本の中で、カフカの言葉として出てくるフレーズです。いかにもカフカっぽい言葉で、これだけ読むと非常に諦観漂ってますが、セバスチャン サルガドに諦観ほど似合わないものもありません。しかし今回の写真集にはこの言葉がとてもシックリきます。

サルガドは今までの大きなプロジェクトで決まって世界像、つまり全体を示してきました。

 写真家は、世界全体を再現しようなどとは考えない。
 彼は、写真は断片である限り、価値があることを知っている。

という、昨年亡くなった多木浩二氏の言葉が端的に示すとおり(いま読むと写真家が”彼”だけであるのがすごい気になりますが、それはまあ置いといて)、写真とは断片欠片であり、全体とは極めて相性が悪いものと思います。それでもサルガドの写真群が文句無しに素晴らしいと言えるのは、それらが可能性、あるいはオルタナティブとして提示されるものであったからだと思います。いわば既成の全体を批判するために提示される仮設代案の全体である、といえばよいでしょうか。よく言われることかとも思いますが、サルガドの営為を、”南米ブラジル出身の人間による「世界の語り直し」”という言い方に還元するなら、いわゆるマジックレアリスムとの親和性は明らかで、そこらへんを想像すると分かり易いかと思います。

『WOKERS』では冷戦末期、資本主義の膨張が激しい頃に世界規模、インターナショナルなレベルで労働者の連帯を描き、『MIGRATIONS』では東西の対立構造が解体した後、国家主義がどんどん強固になっていくような情勢下で、そこから疎外された人々の姿をやはり世界規模で描いてきた、とするなら、サルガドがずっと代案としての世界像を提示してきた、という見立てもそんな外してないかと思います。そして新しい『GENESIS』にしてもその流れにあり、今回は文明そのものを批判し、文明と人間を寄せ付けぬまま成立している、別の世界像を提示しています。ジェネシスとは創世記の意味ですが、サルガドの初期の傑作、やはり既成の「アメリカ」への強烈で豊穣な批判でもありえた『The other Americans』をもじっていえば、今回の写真集のタイトルは『the other GENESIS(もう一つの創世記)』がより相応しいように思えてきます。

彼による現状世界への批判は、決して否定ではなく、対象である現状世界と共にあろうとするために行われる行為です。漸進的であれ、より良くしたいがため繰り出される批判はすなわち提示される希望でもあります。そのような流れで先ほどのカフカの言葉を読んでみますと、変な言い回しになりますが、自分たちのためでないにせよ希望があることそれ自体は、カフカにとっての希望でもあるのではないか、と思えます。ベンヤミンはカフカの作品には「晴れやかさ」があると言っているのですが、それはこういったことなのかなと思います。

最後に、先ほど挙げた多木浩二氏の言葉ですが、直前はこんな文章になっとります。

 写真が、きわめて月並みなもの、平凡きわまりないものをひたすら撮り続けることは不思議ではない。
 クライマックスはどこにもない。ヒロイックな昂りもない。
 なんの特徴もない光景が、次第に、人間の町に見え、生活がはじまる。

この文章はまるっきりカフカの小説、まさに断片欠片による不可能な物語、にあてはまるかと思います。逆にサルガドの写真はしばしば「神話的」「美しすぎる」とも言われるほどですから、この文章にまるっきり対照的で、反証しあっていると言っても良いほどです。臆面もなくスペクタクルとクライマックスを常に内包しているサルガドの写真と、あからさまにアンチクライマックス、アンチスペクタクルな物語にならざるをえないカフカの小説。しかし両者がおのおの背景に持つ希望には共通する所があるように思うわけですが、これは両者ともに好きな僕の一つの希望でございます。