2014年9月10日水曜日

目と舌。二人の作家。



八月は実家の広島を拠点に過ごしていました。カメラ片手に下関を経由し釜山に行ったり、明石のあたりをぶらついたり有意義でしたが、今はそのおかげでスッカラカンでございます。

広島では、石内都さんのハッセルブラッドアワードの受賞を知りとても興奮しました。僕が石内さんの写真にのめり込むようになったのは集英社版『ひろしま』を拝見してからなので、わりと最近のことです。テートモダンによる受賞に際して作られた動画を見てみると、引き合いに出される写真の多くは35mmモノクロスナップでした。今後出るだろう受賞記念の写真集にどんな写真が収められるか、今から楽しみです。

石内さんは最近作でフリーダ カーロの遺品を撮影しています。これで思い当たるのはメキシコの写真家のグラシエラ イトゥルビデです。彼女にもまたフリーダ カーロに関して作品があり、かつ石内さんに先立つハッセルブラッドアワード受賞者であり、確か5歳違いくらいなので、同世代と言える年齢。二人の符合の一致が気になります。イトゥルビデが撮った写真に僕は、視線による過去への言及の独創的な方法、みたいなものを見て取るのですが、その見方を石内さんの写真にも援用できるかもしれません。『ひろしま』や『Mother’s』を考えると、ごく私的な事物のテクスチャーを、ごく私的な目で見て明らかにしているのは世界の過去と歴史と言えます。両者の視線には公式の歴史がとりこぼすか、あるいはそもそも見ることのない、いわばまつろわない細部を顕在化させる力があるように思います。

チカーノの作家グロリア アンサルドゥーアの詩『野生の舌を飼い馴らすには』を思い出しつつ、イトゥルビデの目を謡うように語る舌としたなら、舐めるように肌理を知ろうとする石内さんの目もまた舌です。マジックレアリズムの小説をイトゥルビデの写真とすると、石内作品は、いわゆる私小説や戦後文学といったふうにまとめられる、日本の小説に例えられるかもしれません。私小説と戦後文学という言葉を、ポストインペリアル、帝国以後文学と括ったら、肩書きの変更に過ぎませんが、また違った視点で見られるような気がしました。私小説ということで言うと、「私」の語りによる叙述には、やはり相当な意義があるように思われます。小説の主体を一人称にすることは、語りにおいて決して素朴だったり自然な形態であるということはないと思います。そこを敢えて「私」で書かなければならない理由は何だったのか。僕としては、それらが帝国以後、あるいは帝国下で書かれたことが関係しているという観点で見てみたいと思います。思いつくままに言えば、多和田葉子さんが書く、不思議な人称の用い方をする小説も、私小説から遠く離れたものですが、今挙げた流れの一つの形な気がします。

石内都とグラシエラ イトゥルビデの二人に話題を戻しますと、歴史を語る主体、物語る主体としての有色人女性、とはつまりマイノリティということです。暗黙の中にいる存在がそこから語り始めるというのは可能性の発現であり、すごく勇気づけられます。僕も、僕なりのやり方で頑張りたいと思いました。ただし、”歴史を語る、物語る主体としての有色人女性”とはいうものの、石内さんの場合、出自でありしばしば対象ともなるのが宗主国であった日本ですので、同じく日本に住む写真家の端くれとしては、そのあたり注意しないといけないように思います。もし注意を怠ったなら、生臭い話になりますが、今回、2014年9月の組閣で誕生した一連の女性大臣方のような、反動的な最悪のケースが待っています。おそろしい話です。