2012年7月23日月曜日
伝説。
石牟礼道子さんの『西南役伝説』(洋泉社新書2009)を読みました。ものすごく面白かったです。歴史に徹底的に翻弄されながら、同時にその歴史から疎外される存在でもある「百姓」と呼ばれるような人達の声。それらを聞いて文章を書く作者自身の立ち位置は、歴史の中とか外とかでいうなら一体どこらへんなのか。読んでいてそんなことを考えたり、とにかく色々とかき立てられるものがありました。F・ワイズマンの映画を思い出したりしております。思えばワイズマンの映画で被写体となっているのは結果的にまさしく「百姓」と呼べそうな人達ばかりです。
岩波から出てる「日本の写真家」シリーズの2巻には、西南戦争で負傷したという人物のポートレートが載っています。『西南役』の読後に思い出して見ると、以前とは全然違う印象で、これまた面白かったです。カメラの前で傷をさらす大尉さんの肖像を見て、以前は歴史に翻弄された民衆の姿、的な受け取り方をしておりました。それはそれで一つの見方とも思いますが、『西南役伝説』の中において、戦う兵隊さんは「(百姓により)眺められ、語られる存在」として登場し、少なからず批判的に、解説の渡辺京二氏の言葉によれば「ユーモア」をもって語られてます。つまりチャカされされてると言えるわけですが、その生を賭けた「ユーモア」の出所が語る話者にあるのか、それとも書き付ける著者にあるのか。そのあたり、実際に本を読んで確認して頂きたい所です。それにしても一枚の写真というのは何度でも見る人に再来するのだと、つくづく感じました。
さてこの写真集『田本研造と明治の写真家たち』には、「<三陸大海嘯遭難幻灯映画>より」として、1896年(明治29年)の明治三陸地震により起こった津波の被害を撮った写真も少し載っています。以前には気にも留めず、今回見て初めて知ったような次第なのですが、去年の津波の後に見るこれらの写真には未見であったにもかかわらず既視感が伴い、何だかクラクラとめまいのするような思いで、なんというか、ショックを受けました。映像になっているのがこの1年で僕自身が訪ねた場所ばかりだった、ということもあり尚更です。