2012年5月1日火曜日

そして、外の思考は抵抗の思考になる。



買ってはいたものの、いろんな理由から積極的に手に取ることのなかったJ・ドゥルーズ著宇野邦一訳『フーコー』(河出文庫)を、電車のお供にと、とっさに本棚から引っ張り出し外に持ち出し通して読みましたら滅法面白かったので、備忘がてら長く一部書きます。原著が1986年刊行で、訳書文庫版は2007年ですか。文庫の161ページより、です。


…見ることは考えることであり、話すことは考えることであるが、考えることは、見ることと話すことのあいだの間隙、分離において行われる。
中略 

つまり、外という「抽象的な嵐」が見ることと話すことのあいだの間隙に滑り込むかぎり、考えることは外に属しているのである。
中略

思考することとは、可視的なものと言表可能なものとを統一する美しい内面性に依存するのではない。思考は、間隙を穿ち、内面を圧し解体する一つの外の侵入によって実現されるのである。「外が穿たれ、内面を吸引するとき…。」つまり、内面は始めと終わりを前提とし、ものごとを一致させ「全体」を形成する能力をもつ一つの起源と一つの目的地を前提とする。しかし、環境と中間しか存在しないなら、言葉と物が決して一致せず、環境によって切り開かれるなら、それは、外からやってくる力、動揺や、攪乱や、再編成や、突然変異の状態でしか存在することのない様々な力を解き放つためである。サイコロの目だけが真理である。考えることは、賽の一擲であるからだ。



…はい!以上です!!とりあえず文中の「環境と中間」とかですね、堪りません。この文章の数ページ後、別の段落終わりに、今回表題にしたフレーズが来ます。最高です。

どうも一部を抜粋して有難がるというのは、なんだかとても「ドゥルーズっぽくない」行為と思いますが、しかし同時に、別の本の冒頭で「スナップショットなんか撮るな!」と喧伝するように書いてる人の言葉を、それこそ写真に引き付けて読むというのは実に愉快な気分であり、これはこれでまたすごく「ドゥルーズっぽい」んではないかな、とも思います。