2013年3月18日月曜日

目下の流れ。


昨年末に吉祥寺で見た映画『カリフォルニアドールズ』(1981)に心を鷲掴みにされたまま迎えた新年、テレビでやってた『ブエナビスタソシアルクラブ』(1999)を見てこれまた大いに感動しました。初公開時に劇場で見た時よりもずっと面白かったです。しかしこの映画、音楽を写真に置き換えたらば、その快活なムードはともかくとして、テーマ的なところは日本で出来るんではなかろうか、と思いつき以後その妄想がずっと頭を離れません。

『ブエナビスタソシアルクラブ』がキューバ音楽を、中米植民地世界における、西欧近代音楽受容(もちろんこれは再生産の強要でもあります)の結果のひとつ、クレオール的なものとして見ている面があるとしたならば、日本写真の、例えばvivoやプロヴォーク、そしてアラーキーの私写真などなど、戦後写真界に見ることの出来る一つの流れも、写真込みの「西洋(と)近代」を受容していく中で生まれた結実のひとつと捉えることが出来はしまいか、と思ったわけです。それはつまり、撮られる側から撮る側への積極的な移行、大きく言えば見られる側から見る側へ、自ら(しかし誰?ネーションステート、国民国家成員としての”日本人”で果たして良いのか?)を主体化していくプロセスに対する批判であったと言えるかと思います。例えば中平卓馬氏や森山大道氏の写真を思い浮かべて頂きたいのですが、被写体のみならず媒介たるカメラや写真、そして撮ること自体に強く意識が向けられた写真は、撮影者と被写体、写真を見る側見せる側といった主客の関係そのものを問うようであり、それは「主体化批判」と言って良いんではないでしょうか。キューバの音楽と日本の写真。ざっくり言って両者ともに「西洋(と)近代」へのリアクションとして見た時、色々と共通項を持ってるように思います。

以後、そもそもしかし近代を近代として対象化して良いのか?などなど考えて過ごしていましたら、NHKが新年再放送していたテレビ番組シリーズ『日本人は何を考えてきたのか』がちょうど「近代の超克」を扱ってまして、当時の、超克を標榜しつつも紛れもない帝国主義の立場から戦争へと進む国の姿が、まさに主体化の最たるもの、視線の起源たらんとする様に思えて面白かったです。さっき書いた写真界の流れというのが、戦後に起こった出来事であったということに凄く納得。主体化というのが敗戦でリセットされたかというと、そう簡単なものではないと思いますし。そうして更になんやかや色々としてるうちに、マルクス主義者である廣松渉氏が「近代の超克」について本を書くというのは、全く必然というか、さぞ切実な行為であったろうと思うようになったので、講談社から文庫で出てる『「近代の超克」論』を買うべし!と決意しやはり切実な思いで本屋を訪ねたのですが、結局買ったのは立ち読みして面白かったE・サイードの『文化と帝国主義』でした。しかも下巻だけ。表紙に使われてるアンリ・ルソーの絵が堪りません。

話を映画に戻しますと、三が日には去年と同様加藤泰作品をテレビで拝見。今年は『源氏九郎颯爽記 白狐二刀流』(1957)でした。去年の『瞼の母』(1962)とは対照的に色んな意味でハチャメチャで楽しかったです。天から祝福を受けたかのような中村錦之助氏の存在はまさに驚き。そして『007 スカイフォール』で過去二作とは違いD・クレイグのボンドでようやくなかなか爽快な気分を味わえたと思ってるうちに二月が来て、待ちに待っていた『ムーンライズキングダム』を鑑賞。前々作『ダージリン急行』前作『ファンタスティックmr.フォックス』が本当に良かったので期待が高まり過ぎてた分ちょっと不安でさえあったのですが、そんな期待をフワリと越え凄い良かったです。パンフレットにチラッと書いてあるんですが、監督W・アンダーソン氏はラルティーグの写真が好きだそうです。意外なような、納得なような。しかしいわば日曜休日っぽい暢気なノリは、間違いなく共通なように思います。ただしノリは暢気でも内容はほとんど重厚といって良いこの両者、必見です!