図書館で借りたJ・デリダ著『ならず者たち』(みすず書房 2003)が面白いです。面白いとは言っても理解してる、とは全く別ですんであしからず。後半の試論『来たるべき啓蒙の「世界」(例外、計算、主権)』の文中に、まるでスナップ写真について書いたような箇所がありますんで紹介します。257ページ。
...出来事とは起こるものである[ ce qui advient ]。これは一度、それもたった一度だけ、それを最初で最後として起こる。これはまさに特異なこと、唯一的なこと、例外的なこと、取り替えのきかない予測不可能なことであって、つまりは計算不可能なことである。こうして起こるものないし起こる者は、到来してくる。そのときまさに -これこそ地平の終わりであるとともに、計算可能なプログラムないし目的論の終わり、予測ないし摂理の終わりなのだが- それを見通すことはもはやできないのであって、つまりもはや地平において到来するのを見ることはできない。まさに地平なしに見るほかはないのである。
写真を撮る人でこの文章がシックリくる方、割と多いんではないでしょうか。挙げた文章がいうところの「出来事」を、写真に映る事柄ないしは写真に写そうとした事柄、あるいは写真を撮るその時に置き換えて読むのは、それぞれの読み方で内容が多いに異なる上、かなり手前味噌といえましょうが、まあアリかなと思います。
そしてそんな風に読んだ時、最近単行本になったので読み直した松浦寿輝氏の『波打ち際に生きる』(羽鳥書店 2013)の後半「Murdering the Time 時間と近代」の一節が、先の文章に良い感じに似ているように思いましたのでこちらも紹介します。何もかもが時計の示すような機械的な時間進行を基準にする「近代的な時間システム」。そしてそのもとで生み出された技術といえる映画と写真。両者を比較して、まず単純に言って上映時間という持続を必要とする映画を「物理的=物質的な水準で”近代的な時間システム”に根拠づけられ、それに依存せずには成立しえない」ものとしつつ、それに対する形で写真を捉え、次のように述べます。101ページ。
...その(←映画の)傍らに置いてみると、写真の反=システム性が際立ってきます。持続の中から一瞬だけを切り取って、それを凝固させ永遠化してしまうというこの技術は、「近代的な時間システム」をまったく必要としていない。それどころか、そのあからさまな敵対物とさえ言える。それはシステムの外部に位置する何かであり、場合によっては近代批判としても機能してしまう装置です。
写真というのは「近代」が生み出したもので、出自がそうなのだからどっぷりそのシステムに依存しているもんだと僕は考えていたので、それがシステムを必要とせず、敵対物にさえなるという位置づけは非常に大胆な考えに思われながらも納得させられ面白かったです。個人的に補足すると、やはりしかしこれは結果としての「写真」に当てはまる言葉で、過程である「撮影」それ自体は、コテコテの近代的行為であるように思います。それが一瞬であれ、シャッタースピードとは一種の持続であるという感覚が僕にはあります。ともあれ、J・デリダがいう「出来事と計算可能なプログラム」と、松浦寿輝の「写真と近代的な時間システム」は、その文章内容において、類似をもって関係を持つ、と言えるんではないでしょうか。ちなみに松浦氏のいう反=システム性を体現する写真を撮る写真家を挙げるとするなら、僕的にはアジェとザンダーがまず真っ先に浮かんできます。エッフェル塔が出来た頃に写真機に触れたとおぼしきアジェは、彼が被写体にした、近代都市の先駆けとして成立しつつあるパリの街に対し、完全なアウトローとして視線を向けていますし、ザンダーにいたってはナチスから本を禁書処分にされ原板を焼かれるわけですから、システムから見たらまさに札付きのワルに違いありません。
試論のタイトル『来たるべき「啓蒙」の世界(例外、計算、主権)』は、仏語の原題で『LE "MONDE" DES LUMIERES A VENIR(Exception,calcul et souverainete)』というようです。LUMIEREというのが啓蒙のほか、光を意味する語であることから、これを『未-来の光の「世界」』という謎めいた言葉に読み換え、かつカッコ内をも「写真家(主権=souverainete)が光や画角を計量し(計算=calcul)、写真(例外=exception)を作る」と見なしてみると、文章はもうタイトルからして写真についての手引きそのもの。それにしてもこの”手引き”、手引き自身の内容からすれば「計算可能なプログラム」や「摂理」、あるいは「地平」にあたるわけで、従がうことの出来ないものになってしまいます。ではつまり必要ないのかといえばそうでもなく、文中ある言葉で言えば、終わるべき「仮設」としてあって良いように思います。そしてここで、写真を文字通りの「仮設的な地平」と見なしたらば、写真そのものが「出来事」への”手引き”なのだ、とも言うことが出来るかと思います。つまりいわば地平なしに見るため地平、それが写真といったところでしょうか。
写真を撮る人でこの文章がシックリくる方、割と多いんではないでしょうか。挙げた文章がいうところの「出来事」を、写真に映る事柄ないしは写真に写そうとした事柄、あるいは写真を撮るその時に置き換えて読むのは、それぞれの読み方で内容が多いに異なる上、かなり手前味噌といえましょうが、まあアリかなと思います。
そしてそんな風に読んだ時、最近単行本になったので読み直した松浦寿輝氏の『波打ち際に生きる』(羽鳥書店 2013)の後半「Murdering the Time 時間と近代」の一節が、先の文章に良い感じに似ているように思いましたのでこちらも紹介します。何もかもが時計の示すような機械的な時間進行を基準にする「近代的な時間システム」。そしてそのもとで生み出された技術といえる映画と写真。両者を比較して、まず単純に言って上映時間という持続を必要とする映画を「物理的=物質的な水準で”近代的な時間システム”に根拠づけられ、それに依存せずには成立しえない」ものとしつつ、それに対する形で写真を捉え、次のように述べます。101ページ。
...その(←映画の)傍らに置いてみると、写真の反=システム性が際立ってきます。持続の中から一瞬だけを切り取って、それを凝固させ永遠化してしまうというこの技術は、「近代的な時間システム」をまったく必要としていない。それどころか、そのあからさまな敵対物とさえ言える。それはシステムの外部に位置する何かであり、場合によっては近代批判としても機能してしまう装置です。
写真というのは「近代」が生み出したもので、出自がそうなのだからどっぷりそのシステムに依存しているもんだと僕は考えていたので、それがシステムを必要とせず、敵対物にさえなるという位置づけは非常に大胆な考えに思われながらも納得させられ面白かったです。個人的に補足すると、やはりしかしこれは結果としての「写真」に当てはまる言葉で、過程である「撮影」それ自体は、コテコテの近代的行為であるように思います。それが一瞬であれ、シャッタースピードとは一種の持続であるという感覚が僕にはあります。ともあれ、J・デリダがいう「出来事と計算可能なプログラム」と、松浦寿輝の「写真と近代的な時間システム」は、その文章内容において、類似をもって関係を持つ、と言えるんではないでしょうか。ちなみに松浦氏のいう反=システム性を体現する写真を撮る写真家を挙げるとするなら、僕的にはアジェとザンダーがまず真っ先に浮かんできます。エッフェル塔が出来た頃に写真機に触れたとおぼしきアジェは、彼が被写体にした、近代都市の先駆けとして成立しつつあるパリの街に対し、完全なアウトローとして視線を向けていますし、ザンダーにいたってはナチスから本を禁書処分にされ原板を焼かれるわけですから、システムから見たらまさに札付きのワルに違いありません。
試論のタイトル『来たるべき「啓蒙」の世界(例外、計算、主権)』は、仏語の原題で『LE "MONDE" DES LUMIERES A VENIR(Exception,calcul et souverainete)』というようです。LUMIEREというのが啓蒙のほか、光を意味する語であることから、これを『未-来の光の「世界」』という謎めいた言葉に読み換え、かつカッコ内をも「写真家(主権=souverainete)が光や画角を計量し(計算=calcul)、写真(例外=exception)を作る」と見なしてみると、文章はもうタイトルからして写真についての手引きそのもの。それにしてもこの”手引き”、手引き自身の内容からすれば「計算可能なプログラム」や「摂理」、あるいは「地平」にあたるわけで、従がうことの出来ないものになってしまいます。ではつまり必要ないのかといえばそうでもなく、文中ある言葉で言えば、終わるべき「仮設」としてあって良いように思います。そしてここで、写真を文字通りの「仮設的な地平」と見なしたらば、写真そのものが「出来事」への”手引き”なのだ、とも言うことが出来るかと思います。つまりいわば地平なしに見るため地平、それが写真といったところでしょうか。