2014年3月11日火曜日

アンゲロプロス!


テオ アンゲロプロスの映画『エレニの帰郷』が本当に面白かったです。面白い映画は世の中沢山あると思いますが、アンゲロプロス映画の、あくまでイメージで伝えんとするその意思と手法といいますか、なんというか、ともかく途轍もなさにはあらためて仰天しました。完璧にキマっている!と唸ってるとその画面が移動撮影とズーミングにより変化していき、いつのまにかまた別の完璧な画面が形成されている、という一連の流れを見るのは本当にめくるめく快い体験。イメージそのものを伝えようとしている、と言えるかもしれません。

大げさでなく全てのシーンに痺れたのですが、毎度丁寧に描かれる国境でのシーンが印象的でした。特に、ハンガリーとソ連との国境地帯だという場所で、難民なのか、国境を越えた途端に老人が座り込むシーンには大きく心動かされました。画面外からお孫さんの歌声が聞こえるに至っては動転しきってまともにスクリーンを見れない有り様。最近柳田国男などを読みながら、郷里を離れることや失うこと、そして奪うこと奪われることの取り返しのつかなさについて考えていたので、いっそう感動しました。国境は越えずとも、現在の日本でもご先祖さんが暮らす土地を離れることは、進学や就職などを理由に普通なこととなっています。たとえ一カ所に留まったとしても、土地とそこにある社会は相当なスピードで変化し同じではないはず。そういうわけで郷里、故郷、ふるさとの代わりに今は実家、地元という言葉があるように思います。郷里や故郷への思いが希薄になり分散していくことで立ち上がってくるのは国家と、国家を望郷の念の宛先にするような意識でしょうか。ともかく、「草原が故郷」だという老人が国境で膝をつくのは、”別の国に来てしまった”という意識よりは、”故郷を国家に収奪された”ことを理由にしているような気がします。そしてその点、いつも主人公エレニに寄り添う、ブルーノ・ガンツ演じるユダヤ人ヤコブにとっては、イスラエルという国家の創生がまさしく帰るべき故郷の創生でもあったわけですが、それが映画の中では、一つの、本当に重要な悲劇として語られているように思います。

では、主人公エレニの帰郷の「郷」とはどこを指すのでしょうか。見た感じ、それはどうやらやはり国家ではないようです。いわゆる「母国」はギリシャのようですが、絶えず流浪を強いられる彼女に、作中で帰るべき場所、本来いた場所が明示されることはないように思います。作中にはエレニの孫娘として、もう一人若いエレニが登場しますが、どうやら彼女らが共有するのは名前だけではないようで、老エレニと同じように人知れず、彼女の場合もっぱら街路を、さまよいます。郷里とすげ代わるようにしてある国家に居場所を見出せないがための放浪ではないか、などなど僕は思いました。後から思うに、かつては多くの家族を分かつ国境があり、現在は統合ドイツの首都でもあるベルリンが舞台となっているのも想像をかき立てます。

『エレニの帰郷』は、タイトルを『時の埃』とも言うそうで(英語題で『The Dust of Time』)、締めとして映画の冒頭に聞こえてくる言葉を載せます。本当に最初のシーンです。

 何も終わっていない。終わるものはない。帰るのだ。
 物語はいつしか過去に埋もれ、
 時の埃にまみれて見えなくなるが、
 それでもいつか不意に、夢のように戻ってくる。
 終わるものはない。

「ふるさとは、遠くにありて思うもの/そして悲しくうたうもの」という有名な言葉は室生犀星のもののようですが、故郷を失い、失ったことを忘れ、忘れたことさえ忘れたような状況では、思いうたうことは不可能と思います。しかしそんな中、膨大な時の埃の堆積の中でも尚「物語=国家のものでない歴史=故郷」を思いうたうためエレニ達の流浪があり、アンゲロプロスのまさしく夢のようなイメージ、夢のような映画があるんではないでしょうか。