2020年5月29日金曜日

写真掲載のお知らせ。および、サイト表紙写真の更新。



事後報告です!今年1月に発売された雑誌に写真が掲載されました。もう書店に並んでませんけど!

岩波書店の月刊誌 「世界」2月号の巻頭グラビアに「岸辺のできごと 歴史の共有について 」と題し、写真を8枚載せていただきました。303pには写真についての文章もあります。興味を持たれた方は、図書館など開いていたらば出向いていただき、御覧くだされば幸いです。ボヤボヤしてたらあっという間に2020年も6月...遅すぎる報告、誠に恐縮です。

今回は心残りが1つあります。いつも読んでタメになる記事満載の「世界」さんですが、2月号には文芸評論家の斎藤美奈子さんの文章「抵抗するフィクションをさがして」が掲載されておりました。いつもながら歯に衣着せぬ、斎藤美奈子さんの美しい文章が堅調一徹の「世界」に載っていると、その文体のしなやかさが際立つ上に、「現実(の社会問題)」を専らとする雑誌において、「(エンタメ小説という)フィクション」を肯定する内容であるというのは、ある意味で挑戦的に場所を選んでいるともいえ、非常に美しい異物感、異議申し立て感があり、感じ入ってしまいました。

文章で斎藤美奈子さんは「沖縄と北海道(アイヌ民族)。さらに在日。」に注目しています。

旧来の文学史において、それらは作家のアイデンティティに根ざした「沖縄文学」「アイヌ文学」「在日文学」に分類されてきた。作者の当事者性と不可分な点において、また非当事者にはアンタッチャブルな領域だった点において、これらはよくいえば聖域化、悪くいえばゲットー化されてきたといえるだろう。

直後に「だが、時代は変わりつつある。」と続く内容に関しては、実際読んでいただきたく思います。

僕もこの数年の間に、挙げられた3つの地域社会を、写真を撮りながら、まがりなりにも歩き眺め通り過ぎてきました。今回、北海道(アイヌ民族)と在日の人達に関わりのある場所の写真は掲載されており、あとは沖縄の写真があれば、斎藤美奈子さんの文章の不出来な挿画と言いますか、呼応するような形に出来ていたので、それが実現しなかったことが、今回の心残りとなっています。

というわけで、雑誌に載った写真の続き、9枚目の意味も込めて、サイトの表紙の写真を沖縄のものに差し替えました。2019年のはじめ、辺野古の新基地建設反対運動に奮闘を続けるグループ「辺野古ぶるー」さんの活動に2日間同行させてもらった時の写真です。


当事者と非当事者の関係、斎藤美奈子さんが言う所の「聖域化=ゲットー化」。例えば日本の内閣総理大臣が国政に関して問われたとして、「事に当たったのは自分であり、アナタはそれを実際に見聞きしてない。つまり知らないのだからアナタが事実に至ることは決してない。」といった風に、当事者性を極度に限定する方法をとった場合、本来当事者であるはずの国民及びその国で暮らす人々を非当事者の側に回し、あった事をなかった事にしたり、なかった事をあった事にして応答する、というような状況が、あろうことか現実に出て来てしまいます。これは言うまでもなく、目下のコロナ禍での政府の動向を念頭に述べてみたわけですが、この仕組みは別の場合にも当てはまるように思います。

「地域住民に説明を尽くしながら進めていく」という沖縄での基地建設は、実際工事が今現在も着々と進められているという事実が、反対運動など「ない」と、政府が認識し済ましている事を如実に示しています。また、アイヌ民族などもはや「いない」などと、自分が知らない、あるいは知りたくもないという事実ひとつで結論してしまう政治家が北海道に生まれてしまうという状況も沖縄と同様です。そして、何万もの人間を拐うように連行し働かせたという事実とその責任について、もっと自覚すべきだという、植民地とされた土地である朝鮮半島からの声に対して「そのような事が本当にあったというなら文書なり記録に残っているはずだ、証拠はないのか?」と、本来記録している側なのに平然と切り返す姿勢もまた、今回のコロナ禍で露見したのと同様の構造を持っているように思えます。被害の当事者である人や社会から、その当事者性を剥奪、ひいては存在そのものを否定するような動き、と言いますか。つまりは他者への酷い暴力です。

こう述べていると気持ちが塞いできますが、敢えて言えば、「聖域=ゲットー」を区別する境界線や当事者と非当事者の関係性とは、少なくとも時の権力者が都合に応じて操作可能なくらいには、ユルく流動的であることも示している、とも言えます。写真を撮っていると、自分が引いている様々な境界線が動くことをすごく実感します。「いる」のに「いない」とされるのはとてもつらいことなので、「ここ」にいるし「そこ」にも「あそこ」にもいろいろいるぞと見て回り続けたいと思っています。常に、「時代は変わりつつある」のです。





2019年6月29日土曜日

映画2019その2。 深作欣二回顧上映と、谷口千吉版『ジャコ万と鉄』。



5月、国立フィルムアーカイブでは、深作欣二の回顧上映が開催されました。深作作品だと「ジャコ万と鉄」(1964)と「柳生一族の陰謀」(1978)、そして「魔界転生」(1981)の3本を、かねてから是非スクリーンで見たいと思っており、今回の回顧上映で「柳生」と「魔界転生」は念願が成就。抜群の面白さに感動しました。阿佐ヶ谷での錦之助特集に重点を置いていたので、その他は控えめに、デビュー作の風来坊探偵シリーズと、仁義なき戦いシリーズを楽しむにとどめております。仁義なき戦いの一作目も非常に好きな映画です。ちなみに、一作目を見た同じ日に、銀座にてゴダールの新作「イメージの本」(2019)を鑑賞。どうということもないのですが、両方共に原子爆弾爆発によるキノコ雲の映像が出てきます。

上映のなかった「ジャコ万と鉄」については、あらためてネットで作品について検索することで、深作版ではなく、オリジナル版、谷口千吉監督による「ジャコ万と鉄」(1949)がつい最近ソフト化されていたことが分かり、即座に購入、鑑賞しました。深作版が面白かったので、より評判が高かったりもするオリジナルがどんなものなのか、すごく興味がありましたが、期待に違わぬ面白さ。北海道のニシン漁場を舞台にした映画で、月形龍之介演じるジャコ万と、魅力爆発の若き三船敏郎演じる鉄。二人が大勢の漁師たちと共にニシンを満載した網をたぐるシーンや、三船と浜田百合子演じるユキが馬車で何度か交錯し会話を交わす雪の辻のシーンなどなど、素晴らしいシーンの連続でした。

深作版に比べて、谷口版はニシン漁場とそこにいる人たちの風俗、時代の息吹きみたいなものを、まさに活写しており、より鮮烈な印象です。とはいえこの違いは優劣と言うより、谷口版がまだニシンが獲れていた頃の映画で、深作版は、乱獲により、すでにニシンが獲れなくなっていた時代に作られた映画であるという事を前提とした差異と見ることも出来るかと思います。


2019年6月24日月曜日

映画2019その1。 錦之助映画祭り。



3月24日から5月25日までの2ヶ月間、映画館ラピュタ阿佐ヶ谷にて、時代劇スター中村錦之助の特集上映が開催されました。1954年から66年までの東映映画35本が上映され、全てを見るわけにはいきませんでしたが、なんとか23本を鑑賞。見た映画全てが面白かったといって過言なしです。しばらく映画館に通い、今後なかなか経験出来ないだろう、素晴らしい日々を送りました。

悲劇喜劇を問わず様々な映画がある中、登場するなりスクリーンに活気をみなぎらせる驚くべき中村錦之助については、もはやファンとして筆舌に尽くしがたいものがあります。片岡千恵蔵、月形龍之介、大河内伝次郎、そして市川右太衛門ら「剣星」を筆頭とした、ともに出演する沢山の俳優たちを、様々な役柄で見ることが出来たのも、とても良かったです。ひとり挙げるなら、まず山形勲氏。清々しい悪党から酷いゲスまで、悪役を非常に気持ち良く見せてくれます。最高です。

本映画祭は、沢島忠、マキノ雅弘、加藤泰、佐々木康、松田定次、内田吐夢、佐々木康、河野寿一、山下耕作、田坂具隆ら(見た順です)名監督と、坪井誠、三村明、三木滋人、川崎新太郎、吉田貞次ら(見た順です)名キャメラマン達の仕事をまとめて見る、絶好の機会でもありました。すべてプログラムピクチャーで、ジャンルも時代劇に限られ、時として同じモチーフを扱いながら、監督ごとキャメラマンごと作品ごとに、それぞれ個性が際立っています。こういった事に気づくには、やはり一度に見ることが大事だったように思います。今回の特集上映で、自分は本当に大きな収穫を得ることが出来ました。

東映時代劇は1951年からおよそ15年続きました。続いたとはいっても、15年は決して長い時間ではありません。これほど大量の傑作が生み出され、それらが娯楽として大衆に普通に享受された時期があったという、にわかには信じ難い戦慄の歴史的事実。ともかく脱帽です。




2018年10月26日金曜日

写真掲載のお知らせ。



現在発売中の雑誌『世界』(岩波書店)2018年11月号に、写真と文章が掲載されています。
「HIROSHIMAS 関釜航路」というタイトルで、広島と韓国で撮った写真です。
写真は雑誌の最初の方、文章は319ページにありますので、合わせてぜひ御覧ください。




2018年5月15日火曜日

アキ・カウリスマキ『希望のかなた』(2017)




ヘルシンキに流れ着いたシリア難民の青年を中心に群像を描いた物語です。映画はカウリスマキ作品らしく、全編にユーモアを織り交ぜながら、ロベール・ブレッソンさながらの端的な画面の繋がりで作られています。過酷さをどうドラマチックに描くのか、というのでなく、過酷さが際立つ現実をどのようにドラマに、映画にするのか。そう問い、自ら応えるような映画を、カウリスマキはここのところずっと作り続けているように思います。J・バトラーやJ・デリダが言うところの「行為遂行的」的な感じ。『過去のない男』(2002)を見て以来、カウリスマキの映画を見るのが、とても重要な行事になっています。

映画には犬が印象的に登場しております。最近、犬が出てきて印象的だった映画にゴダールの『アデュー・オ・ランガージュ』(2014)があります。あの映画もまた凄かったですが、「犬の画面への到来」を、ゴダールとカウリスマキは同じように(構図は違います)撮っているぞ、と興奮しました。そして犬といえば、もうじきウェス・アンダーソンの新作『Isle of Dogs (犬ヶ島)』が公開となります。今から楽しみでなりません。





2017年8月21日月曜日

石母田正『日本の古代国家』(1971)


古代における国際関係を契機とする支配構造の変化、すなわち大化の改新以降の律令の導入と、それに伴う、いわゆる公地公民制が代表するような、領域支配と人民の管理(への意志)が、逆に主体である支配者層の構造を抜本的に変化させてもいった、という論旨。非常に面白いです。大王あるいは天皇の存在を絶対化せんとする中央集権化により、大王あるいは天皇という存在が、制度の中に位置付けられ組み込まれることで結果として相対化されていく。このような動向は後世の藤原氏の隆盛や、著者が言うところの「中世」の到来などにも直通する流れなのだと思います。

冒頭の「はしがき」にて、「愛国心」や「国家利益への従属」が政治により説かれるような執筆当時(1970)の社会動向を明記し批判しつつ、自らの著作を「死滅した過去の国家について考察」だと言い切るスタンスは本文にも貫徹されております。浅学な僕にとって本書は、著者の本書へと至る来歴も含め、様々な文脈が交錯する奔流のようなもので、基本的には溺れる中を足掻くような読書であります。



2017年5月12日金曜日

写真掲載のお知らせ。


現在発売中の雑誌『世界』(岩波書店)6月号に写真と文章が掲載されています。
「ATOMIC SHADOWS」というタイトルで、広島とアメリカ合衆国南西部で撮った写真です。
皆様ぜひ御覧ください。